|  「…これが、淳于瓊か…」  冷たい牢獄の中、曹操が見据えた先には、鼻を削がれ、耳を失い、体中を鎖で縛られた男がいた。  元西園八校尉、かつては曹操と肩を並べ、朝廷の権威を持っていたこともある男。現在は袁紹の配下にあって、烏巣の決戦において焼き払われた兵糧庫の守備を勤めていた男である。  「…曹操か」  「…分かるのか?」  「へっ、血の匂いで分かるさ。戦場でも、その血の匂いを求めて、戦ってたんだからなぁ…」  「!」  曹操は淳于瓊の言葉に、一瞬冷や汗が出た。その言葉が何を意味しているのか、すぐに分かったからだ。  「お主…」  「ま、今となっちゃどうしようもねぇか。これ以上、迷惑も害も与えられねえしな」  淳于瓊は苦し紛れに呟きながら、少しだけ笑みをこぼした。しかし、曹操は自分の背筋に、何か凍りつくような、それでいて奇妙な同情を抱いていた。  (なぜ、この男に情を抱く…)  曹操は未だに笑みを浮かべる淳于瓊を見捨てるように、牢獄を後にした。    (なぜ、儂があの男に情を抱く?)  曹操は自らの心のうちに抱いた奇妙な感情に、動揺していた。  自ら官渡の地を制し、天下に覇を唱えようとする曹操にとって、淳于瓊は官渡の地を守る袁紹の配下にあり、敵の肺腑とも言える烏巣の兵糧庫を守っていた。曹操は数で優る袁紹と対するに当たって、大兵力ゆえの基礎とも言える兵糧庫を奪うことで袁紹軍の士気を落とし、戦争を優位に進めるという考えがあった。  一時は袁紹軍の兵力に圧倒されそうにあった曹操だが、裏から支えてくれた幕臣たる郭嘉や荀ケ、そして名だたる勇猛な武将達を用いて、烏巣の兵糧庫を制圧、そして勢いに乗って袁紹軍を官渡の地で完膚なきまでに撃破し、多くの敵将を捕らえ、袁紹自身は敗北のショックを受けて病死したと言う。  そんな中、曹操は官渡の戦いの後始末とも言える、河北一帯の武将の配置と、袁紹軍の捕虜となった武将達の処遇を決めているところだった。  「…郭嘉、郭嘉はおるか」  曹操は、西の彼方に沈む夕日を見つめながら、不意に声を上げた。  「お呼びですか、曹操様」  曹操の呼び出しに即座に応じた郭嘉が、間もない時間に曹操の元に現れた。  「郭嘉、此度の戦の始末はついたか」  「はっ、ほぼ予定通りに」  「そうか…戦の際には、ずいぶん世話になった。礼を言う」  「いえ、これも荀ケの推挙があればこそ、そして殿の人徳があってこその勝利であると思います」  郭嘉は決して媚びることなく、曹操に対して深く頭を下げた。曹操は郭嘉の態度を見て、やや寂しげな表情を浮かべ、また夕日に目を向けていた。  「…殿?」  曹操の態度が妙なことに、郭嘉は既に気づいていた。しかし、郭嘉は決して心配するのではなく、むしろ曹操に対してやや口調が厳しかった。  「何か、心配でもあるのですか?」  「…特には、な…」  「殿に何かあれば、仕官した私としても困ります。周りに心配をかけぬようにしてください」  郭嘉はやや怒りを込めたような言葉で返すと、そのまま部屋を後にした。残った曹操自身も、もはや何も口に出さずに、ただ黙って夕日を眺めていた。 |