数日後、曹操は再び牢獄を訪れた。だが、曹操は淳于瓊の牢獄に向かうのではなく、その周囲の空いた牢獄を眺めるだけだった。
「……」
「…今日は、冷やかしじゃないのか?」
曹操がいることに気づいた淳于瓊が声をかける。曹操は、ため息をつきながら、ふと淳于瓊に話しかけた。
「…おまえの同士も、皆逝ったな」
「まぁな。でも、張コウや高覧は、おまえのところで雇ってくれるんだろ?」
「どこでその話を?」
「はっ、今度から警備兵にも気を配ることだ」
淳于瓊が毒づくと、曹操は何も言葉を返さず、しばらく黙って淳于瓊を見ていた。
「…おまえは、このまま死ぬつもりか?」
曹操が不意をついて話しかけると、淳于瓊は「あ?」と、ケンカ腰で返事を返してきた。
「少なくとも、西園八校尉として選ばれたおまえが、このまま死ぬのは忍びないと思うが」
「…けっ、鼻と耳を削ぎ落とした相手に言われたくはねぇよ」
「……」
「なぁ、曹操。おまえ、覇道を進むんだろ?」
「ん、あぁ…」
曹操は、不意に淳于瓊から話しかけられて、思わず言葉が中途半端になった。
そして淳于瓊は小さな笑みを浮かべてから、更に言葉を続ける。
「だったらよ、俺を生かしておいてもいいことはないと思うぜ。俺がおまえと道を違えたのは、袁紹のやり方に納得したからじゃない。俺は、王道こそが天下を治める道だと考えていただけよ」
「王道、だと…?」
「確か、劉備っつったっけか?あの、人徳で情け深いとかいう…」
「…劉玄徳に、何かあるのか」
曹操が少しイラついたのを見越してか、淳于瓊はにやりと口元に笑みを浮かべ、暗闇に光る目を曹操に向けながら、話を続けた。
「あいつの方が、天下を治めるには一番お似合いな奴だとは思ったぜ。政治手腕とかは一切抜きにしてな」
「それは、人の上に立つのは人を引き付けられる、正に王道を歩めるもののみ、ということか?」
「似たようなもんだ。おまえは逆に、人によく見られ、また人によく惚れる。女だけじゃなく、自分が認める漢も味方につける、そういった考え方だ」
「……」
曹操は淳于瓊の言葉を聞いて、何も言葉が思い浮かばず、ただ黙って淳于瓊の沈む表情を見ていた。
「だからよ、おまえは人を殺せない…いや、殺すには勿体無いと考える。でもよ、それは人の上に立ちたがる奴の考えだぜ」
「それが、覇道だと…?」
「俺の考えはそうじゃねぇ。俺は人に惚れるのではなく、人に惚れられる奴が天下を治める、いわば王道を進むべきだと考えてる。だからこそ、おまえとは相容れなかったって訳さ」
「……」
「わざわざ耳と鼻を削ぎ落としておくだけにしないで、さっさと殺したらどうだ?それこそ、本当の覇道なんじゃないのか?」
淳于瓊は、自ら拘束されていると言う立場にもかかわらず、曹操にきつい言葉を投げかける。しかし、曹操は動じる様子は一切見せず、返って淳于瓊に黙って視線を送り続けていた。
「淳于瓊を、生かしておくですと?」
曹操が郭嘉に話すと、郭嘉はあからさまに反対の態度を示した。
「何か、問題があるか?」
「ありますよ。淳于瓊がいかに優れた将校だとしても、あれは殿の敵です。力を貸すとは思えません」
「だが、それでも優れた人物であることには変わりあるまい。儂は、そういった者にこだわるつもりはないぞ」
郭嘉に対して、あえて理路整然と言葉を並べ立て、真っ向から対抗する曹操を見て、郭嘉は苛立ちにも似た侮蔑の態度を示した。
「あの者を生かしておいて、仮に配下にいたとしましょう。ですが、彼は後に必ず反乱を起こします。今のあの者には、殿に対する恨みの気持ちしかありますまい」
「…そう、か」
「私も同感です、殿」
「あ、荀ケ!」
曹操と郭嘉と話しているところへ、丁寧な言葉遣いの荀ケがそっと部屋に入ってきた。
「荀ケ、いつ来たんだ?」
「今日の昼にこちらに…殿のお呼び出しにあれば」
「うむ…」
「にしても、解せませぬ。なぜ殿は、淳于瓊を生かしておこうとお考えで?」
荀ケはあいさつもそこそこに、すぐさま曹操に向かって意見を述べた。
「…あのまま殺すには不憫と、そう思っただけよ」
「それは本気でおっしゃっているのですか?覇道を進むと決めた、曹孟徳の言葉なのですか?」
「お、おい、荀ケ。言葉が過ぎるぞ」
「構わん、郭嘉。それより荀ケ、続きを話してみろ」
曹操は荀ケを制止しようとする郭嘉を収め、荀ケに向かって厳しい目線を向けた。だが、荀ケは一歩たりとて引く様子は見せず、落ち着きを払った様子で言葉を続けた。
「はい。此度の戦、殿の勝利は袁紹と言う肩書きばかりの者に比べれば当然のこと。ですが、その配下に優れた者が多くいたことは認めます。我らの参加に加わった張コウなどもそうですし、以前魏続や宋憲を討ち取った顔良や文醜などもそうです」
「それは、袁紹と言う人間の本質が見抜けなかった愚か者達であろう。優れているとは思えぬ」
「…愚か者、か」
「あ…殿、これは失礼しました」
「構わぬ。確かに、この曹孟徳のことを知らずについていた以上、おまえと比べれば皆、愚かだろうよ」
郭嘉がつぶやいた皮肉に反論するでもなく、曹操は郭嘉の言葉を諌め、改めて荀ケの言葉に耳をやった。
「で、荀ケよ。淳于瓊に関してはどう考えるのだ?」
「はっ。あの者は、かつて西園八校尉として殿と肩を並べたこともあるのでしょうが、今回は事情が違います」
「事情?」
「…あの者は、耳と鼻を削がれ、更には自らの守る 烏巣を奪われたことから袁紹軍が大敗したと言う業も背負っております。故に、いくら諭そうとも、鏡を見るたびに敗北のことを思い出し、殿へ恨みを抱くようになるでしょう。となれば、手駒として扱うことも出来ませぬ」
荀ケのきつい言葉に、曹操はしばし黙り込んだが、近くで見ている郭嘉も半ば無視するように、荀ケは言葉を続けた。
「それに何より、殿の選ばれた道は、袁紹のような王道ではございませぬ。殿が欲したのは、全て自らの力によって収める、覇道にございます。覇道を突き進む者、その道を邪魔するものは誰であろうと容赦なく斬り捨てるべき…これこそが、真の覇道ではないのでしょうか」
「荀ケ、おまえ…」
郭嘉がふと口を開いて何かを言おうとしたところで、荀ケは軽い微笑を浮かべて、改めて言葉を続けた。
「…私は、天下の民が安んずるならば、覇道に力を捧げるのもまた人の道だと考えますがゆえ」
「…そうか。荀ケよ、すまなかったな」
「いえ、この程度でお役に立てるならば」
荀ケは深々と頭を下げ、それに習って郭嘉も頭を下げると、沈んだ夕日をいつまでも見ていた曹操は、不意に振り返って、二人に向かって話しかけた。
「ご苦労だった。とにかく、この河北を制したことは大きい。明日また、今後のことについては話す」
「ははっ」
二人が返事する様を見て、曹操はふと、空に見えてきた星空を眺めていた。
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